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タイ歴史-その2 タイ王朝成立、スコータイ王朝とアユタヤ王朝

 

お久しぶりにタイ歴史へ戻ってきました。

最近はコロナ関連の暗いニュースばかりで、情報酔いしました。 一旦離れるためにも自分が好きな歴史の話にします。 今回から本格的なタイ王朝のお話です。

 

 

 

前回までのタイ歴史

その1にありました、タイの古代王朝の最後は、 現在のタイにはカンボジアのクメール王国に支配されましたがその 後勢力が落ち、タイ王朝が建国する流れでした。

 

さてータイの歴史へ!

不思議も派遣!というか、歴史以外のお話もあります。


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2.スコータイ王朝 (1240〜1378年)

 日本:1192いいくに(いい国か?)の「鎌倉幕府時代」あたり

「スコータイ」はサンスクリット、パーリ語で「幸福の曙」 を意味します。

王国の領域は現在のタイ北部のスコータイを中心に、 スコータイ王朝が領土と文化が最盛期となったのは第三代国王の時 代。

 

その方はやっと登場の三大王の一人、 御名前は以前タイ文字のところでお話しました、 ラムカムヘーン大王様です。クメール文字を改良し、 タイ文字を考案したありがたい王様で、 彼の時が一番勢力が広く最盛期だったと言われています。


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クメール文字とタイ文字

現在、使われている文字になりますが、 それら文字を比較してみましょう。

 

クメール文字

 

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タイ文字


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形は言われてみれば、似ているような、正直よく分かりません。

特徴として、クメール文字から生まれた、タイ文字、 ラオス文字などの東南アジア大陸部の文字は南インド系文字の古い 特徴を共有しています。

日本語にもなく変わっている特徴の一つとして、 音字を中心に母音記号を上下左右に配置する「音節文字」 であることです。

 

 

ここから、眠くなるので、面倒な方は次の項目へ飛んでください。

ねむいですよー

 

 

さて、眠くならない人だけ。

 

 

 

クメール文字の成り立ち 

せっかくなので、カンボジアの首都であるプノンペン(PhnomPenh)をクメ ール文字で書きます。矢印は左から右へ読むという、印ですので、無視してくださいね。

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ph と n という二つの子音が連続する場合、第二子音(この場合 n)は独立した子音字ではなく、子音文字ph の下に脚文字で書き、母音記号 om は,子音字ph の上に書かれることになります。

 

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penh の母音記号eは,子音字の左側に書かれる記号です。 文字の一部が上下に置かれる、日本語ではありえない構成ですね。

 

詳細な決まりは違いますが、この特徴はタイ文字も同様です。

 

 

不思議?ラームカムヘーン大王碑文

ラームカムヘーン大王碑文というのがあります。

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写真後ろ側の銅像が大王様、手前がレプリカの碑文です。

1283年刻碑のタイ語で書かれた最古の文字として知られて、1 833年ラーマ4世(実は)がスコータイ遺跡で発見したとされ、 タイ小学国語教科書に採用、2003年にはユネスコの世界記憶遺 産に登録されている、とても凄いのですが・・・


 

 

実はこれ少し不思議?な点があるんです。

来ました、不思議派遣です!

 

 

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何か気づくことありませんか。 私は現代のタイ文字もよく分かっていないので、分かりません!( ドヤ)

 ラームカムヘーンは先述のように、 クメール文字を元にしたタイ文字を考案したと言われ、 碑文にはラームカムヘーンの文字が使用されています。この碑文には、 スコータイは豊穣な土地を有する牧歌的な国家として記されており 、一般に碑文の史料性を高く評価されています。

 


一方で、碑文は19世紀に製作された後世の偽作とする説もありま す。

なぜならタイ文字を読める人から言わせると、 碑文は過去の難解な文語体タイ古文字とはかけ離れ、 あまりに平易な口語文のため、昨今は発見者ラーマ4世自身による 捏造疑惑ではないかと。

 

偽造!?

しかも発見者本人の。 よく古代遺跡の発見者本人がでっち上げたと言われるのと似ていま す。

 

先ほどクメール文字で説明したように、 当時東南アジアで使われていた文字はいずれも子音の上下左右に母 音が置かれる形式でした。ただ、 この碑文で使われているラームカムヘーン文字のみ上下に母音が使 われず、前後にしか使われていないからだそうです。

 

ラームカムヘーン大王時代後のスコータイ王リタイによるリタイ文 字では、母音を上下に置く形式が使われていることなどから、 碑文の文字がスコータイ時代に実在していたかどうかが怪しまれて いいます。

 

疑惑と考えている学者は、「ラーマ4世時代のタイは列強の脅威( 領土喪失の危機)を感じ取り、ラーマ4世が西洋の表記法により近 いタイ文字を作成することによって、 西洋にタイの文明の高さを見せつけようとした」 という説を唱えています。

 

もちろん、これも一説ですので本当か分かりません。

まあ、不思議ですねえ。

 

無理やり、不思議に繋げている感はありますが・・・

 

 

カワイイ古代タイ文字 

ところで私はこの古代タイ文字、かわいいなと思いました。

RKHが古代文字、Modernが現在のタイ文字ですが、 赤丸で囲ったもの、なんとなくウサギの形に見えませんか?

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この文字は近代にも残して欲しかったです。

 

 あともう一つ、これだけ覚えておけば面白いと思った文字です。

 

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このう○こみたいな文字は「ここから文章が始まる」 という意味らしいです。
現代では使われていません。


実際に先の碑文にもちゃんと最初に鎮座されています。

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ありますね。赤丸のところに。
ちなみに、赤丸の左となりの文字๑は数字の1という意味です。


豆知識でした。
この文字は忘れないでしょう!

 

 


ラムカムヘーン大王の名前の由来

ラムカムヘーンの話に戻しますと、名前の由来は、 戦功を称えられて「ラーマのような強者」 を意味するラームカムヘーンの名を与えられたとのこと。

この「ラーマ」の意味は、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』 の主人公、ラーマ王子から。

この物語の王子は、頭が良く、弓術をはじめ武にも長け、 かつ超絶イケメンというMr.パーフェクトという絵に描いたよう な王子様です。ついでに物語の概要は、ラーマ王子が捕われの妻を 奪い返すために、魔物に戦いを挑む、よくある物語のようです。

 

 

そのラーマ王子様です

 

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・・・イケメン?

 

 

 

そのラームカムヘーン大王は、 もちろん三大大王で超有名なのでタイのお金の「20バーツ札の裏 側」におられます。

 

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 ラームカムヘーン大王の肖像画としては、私はこれが好きです。


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優しそうな、おじいちゃんみたい。

だけど、怒ると怖そう。

 

 

 

仏教について

ラームカムヘーン大王は文字だけでなく、 スリランカから伝来した上座部仏教を国教に制定したり、 現在のタイ国家の礎を作り上げた王としてもよく知られています。 仏教は日本の仏教と大きく異なりますが深い内容なので、 また別の機会にブログにしたいと思います。

 

 

 

スコータイ王朝の歴史へ戻ります

ラームカムヘーン大王の死後、各地で離反が相次ぎ小国になってい き、アユタヤ王朝(1351 - 1767年)が台頭していきます。

アユタヤ初代王ラーマーティボーディー1世(ウートーン) はスコータイ王朝に圧迫を加え始めましたが、 スコータイを掌握することはしませんでした。

 

つまり、スコータイとアユタヤ王朝が並行して存在します。

その後、サイルータイ王(在位1368 - 1399年)の時代に、 スコータイ王家はだんだんと領域が狭くなり、 マハータンマラーチャー4世(在位1419 - 1438年)の時代に、跡継ぎが断絶し、 スコータイ王家の親戚であったアユタヤ王朝のラーメースワン王子 が後を取る形で、アユタヤ王朝に吸収され消滅しました。

 

いわゆる、付き合いがだんだんと薄れていき、 いつの間にか消滅しするような感じでしょうか。

 

 

 

3.アユタヤ王朝(1351年~1767年)

日本:「戦国時代」 から徳川幕府の「江戸時代」まで

約400年間続いた長期王朝ですが、一時期隣国のミャンマーに支 配されていたり、その後再び独立期間があります。 

 

 先の紹介した、スコータイ王朝の1国主がアユタヤに王朝を開いた のが始まりとされています。

 

 

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1350年:ラーマティボディ1世により築かれたアユタヤ王朝は 次第に勢力を広げ、ラム・ カムヘン国王の死とともに衰退した前王朝のスコータイをも属国と しました。また、初の法典をつくることで国内の基盤を固め、 アジアでも屈指の大国となります。

 

ボロムラーチャー2世はクメール帝国を攻略し、 続くボロムトライロカナート王がクメール人から学んだ知識をもと に中央集権体制を確立。

その一方でマレー半島までに国土を広げ、 王朝は繁栄を極めました。 この繁栄はポルトガルなど外国との交流を深めたラマチポティ2世 から第14代プラチャイ王の時代まで続くことになります。

 

儚い王朝衰退の歴史

1438年:スコータイ王朝の王位継承者が途絶えたことにより、 実質的にスコータイ王朝を吸収

1548年:ビルマがアユタヤに侵攻し、度重なる攻撃を受ける

1569年:アユタヤ陥落

1584年:ナレースワン王(タイ三大王、二人目) がアユタヤ王朝の独立を宣言

1595年:要所をビルマから奪回することに成功 

 


先のナレースワン王は 、兵士の教育にも尽力した「軍神」 としてその名を轟かせました。ムエタイの考案者であるともいわれ ており、この王と深い関わりのある、鶏の置物についての詳細は最 後にリンクしますが、アユタヤ旅行記に記載していますので、ご興 味のある方はそちらをご覧ください。

 

ナレースワン王は、50バーツ紙幣の裏側に今でも存在してらっし ゃいます

 

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タイ文化の開花と華僑の台頭

各国から商人がアユタヤを訪れ交易が盛んとなり、 タイはその優れた文化を開花させました。

日本からも山田長政らが渡り、 アユタヤに日本人町ができるほど日本人にとっても魅力的な交易地 だったに違いありません。

 

貿易を支えてきたのは華僑(中国人)などの外国商人でした。近接 するアユタヤ朝は中国への米輸出でさらに発展、特に17世紀後半 の清朝(中国)のは華僑移民が急増しました。

 

一時はタイでは日本人勢力が旺盛していましたが、1629年の貿 易の王室独占令(実質は華僑独占)で、翌1630年には先の山田 長政がアユタヤから追放(毒殺され!?)、 同年アユタヤの日本人町(人口約8,000人) は謀反の恐れありと焼打ちに遭い、 住民は全員虐殺または追放されて壊滅しました。

 

なお、日本人町は1632年に追放住民が戻って再興されたが、1 635年の江戸幕府による鎖国令により消滅した。この結果、 アユタヤ王国の貿易は王室独占すなわち、華僑の支配下に置かれ、 以来今日に至る華人のタイ経済支配が確立されました。

 


そう、現在でもタイ人のお金持ちは華僑関係が多いです。 

 


以降の歴史

1759年:再びビルマが進行を開始

1767年:アユタヤ陥落、アユタヤ王朝滅亡

 

33代、417年間に及ぶこのアユタヤ王朝時代は18世紀に幕を 閉じることになりました。

 

 

 

さて、近代史へ移る前に次のブログではスコータイ、 アユタヤ旅行の写真を紹介して、 今回の歴史のおさらいをしたいと思います。

いわゆる、エピソード9もある大人気映画の、 スピンオフみたいな位置づけですね。

 


お楽しみにー!